「安全」という幻想の研究
一般的に言って、日本では「安全」という言葉が正しく理解されずに誤って使われています。それは、私たち日本人の危機管理意識に悪影響を与えています。道路交通事故対策が満足にできないことはそれを良くあらわしています。
さっそくですが、「安全」とはどういうことなのか、まずは辞書で確かめてみましょう。
「危害または損傷・損害を受けるおそれのないこと。危険がなく安心なさま。」
ということです。ちなみに危険とは、「あぶないこと。身体や生命に危害または損失の生ずる恐れがあること。また、そのさま。」とあります。
道路交通を題材にして安全とはどういうことなのか探ってみます。
安全というのは、現実の事象としての安全 と 頭の中(主観)での安全に分けられます。
現実の事象としての安全とは絶対的で確定的なこと、
● 絶対的
辞書の意味を文字通り理解してください。道路交通にあてはめると「事故による物損や死亡、負傷のおそれが無いこと、事故に遭う危険がなく安心して移動できること。」となります。もちろん現実は明らかに違います。事故に遭うおそれは大いにありますし、とてもではありませんが安心できません。例え事故にならなくても、俗に言うヒヤリハットや危険な事態が頻繁に起こっています。
安全とは、こういう危険な事が無いことを言いますから、少しでもこういう事があれば安全ではありません。ですから例えば道路交通は安全ではありません。このように、安全というのは、安全なのか、そうではないのか、がはっきりしていて、もし安全であるならそれは絶対的なのです。
● 確定的
現実の事象としての安全には、時間軸がかかわっています。1つ1つの物事についてそれが安全だといえるのは、それが完了してからであり、結果としてです。例え一瞬でも過ぎ去った瞬間までのことしか言えません。だから安全なのであればそれは確定しています。
誰かの移動でいえば、出発してから無事に目的地に到着して、ようやく安全が達成されたといえるのです。逆にいうと、無事に到着するまでは安全だといえません。とりあえずある時点まで、というのでもよいので、途中で「ここまでは安全に来れました」と言うことはできます。
頭の中(主観)での安全は不確定・不確実
誰かが、ある物事について辞書の意味どおり安全だと思ったり考えたりすれば、とりあえずそれは安全ということになります。それは頭の中(主観)での安全であり、本当に安全であったか(過去)、本当に安全であるか(現在、未来)は、いずれにしても不確実・不確定であり、とても疑わしいことすらあります。
● 過去
一般の道路交通参加者の「安全だった。」これは、実は衝突寸前の危険な状況があったのに、気付いていないだけかもしれません。だから不確実ですし、安全ではなかったかもしれないので不確定です。
≪これは、人によって程度が違う「危険の感受性」にもとづいていて、これが低いほど(実際に衝突するか、誰でも危ないと思う場面でもなければ)安全だったと思いがちです。現実の事象としての安全も、所詮は「危険の感受性」が高い人から見た主観や一般的な認識なのかもしれません。これについては別の機会に書きます。≫
● 現在、未来
現実の事象として絶対的で確定していることだけが安全だと言える、と書きましたが、現在から未来へ向けての不確実・不確定なことも安全だと言ってしまうことはできます。
たとえば、一般ドライバーの言う「こっちの道の方が安全だ。」です。但し、これほど不確実・不確定なものはありません。その道が本当に安全かというと、そんなわけはないのですから。
航空会社の社長などが「当社は安全です。」というのもこれにあたります。しかしこれは一般ドライバーの言う安全とは違います。後に続く科学の話に関係しますが、安全のためにすべき事を十二分にやっているので間違いない、という確信にもとづいています。
それでもやはり、確定的な現実の事象ではなく主観でしかないので、(この場合は無期限で永続的な)安全が保てるかどうかは不確実・不確定であるという点は重要です。(だから、航空会社の問題を追及しているジャーナリストに言わせれば問題があるのかもしれません…)
科学技術の視点を加えて、もう少し分析します
厳密に言うと、1つの物事が完結した後に言える安全を除いて、本当に安全な物事は世の中に存在ません。ですから、何をもって安全というのか、という基準があるはずです。科学技術が係わる事の場合、現在の科学技術の水準で予見可能な危険を無くした状態(つもりも含む)を「安全」と言うのだと考えられます。
例えば、飛行機や新幹線は、設計や点検整備、運行など全てにわたって、科学技術のフィルターを通して安全と言える状態でないなら運行は取りやめるべきです。原子力発電所も安全と言えないならすぐに停止すべきです。
安全にしているつもりでも、起こってしまうのが事故です。飛行機の墜落事故の場合、一度に亡くなる人数が多いので危険な感じもしますが、滅多に落ちることはないので、道路交通事故に比べればはるかに安全性は高いです。一般的にそれは安全と見なされています。そうでなけば誰が乗るでしょうか。
道路交通をこのような視点で見てみるとわかりますが、非常に多くの予見できる危険があらゆる箇所に散在しています。現在の科学技術ではそれらをゼロに近い値まで下げることはできていないので、安全にしているつもり、にすらなっていないのです。そして実際に、毎日毎日大勢の死傷者が出ています。
つまり、道路交通は現状として安全にはほど遠いものであって、むしろ危険だという前提で考えるべきものなのです。道路交通についての正しい認識を持っているドイツでは、日本でいう交通安全教育の1部分を交通危険学と呼ぶのです。(参考:JAMAGAZINE 1998年4月号)
総理大臣も理解していない安全 − 安全には一番も二番もない
中央交通安全対策会議会長でもある小泉総理大臣(当時)の談話の中に『「世界一安全」な道路交通の実現を目指します。』という一文があります。おそらく、世界一安全というのは、事故にあう確率が世界で一番低いということが言いたいのでしょう。(実際は死亡事故にあう確率だけなのですが…)
きちんと「安全」の意味がわかっていれば、こんなことは言えないはずです。事故にあう可能性をゼロにするのではないですし、安全は安全なのであって一番も二番もないからです。困ったことに、総理大臣ですら「安全」という言葉の意味を良く理解していないのです。
「安全な」を正しく言うなら、絶対的な表現ではなくて程度にしなくてはなりません。安全を安全性に言い換えて、さらに高い低いを付け加えて「安全性の高い」とすればよいのです。そうすると「世界一安全性の高い道路交通の実現を目指します。」となるわけですが、これはかなり難しい目標です。
日本人がよく使う安全は、誤用?幻想?
先ほど出てきた「こっちの道の方が安全だ」という場合の安全の使い方ですが、これは現実の事象ではなくて主観であるため、この用法の意味を辞書に載せるなら次のようになるはずです。
危険がなく安心だとおもわれるさま。」
しかし、辞書の説明が不十分なのか、誤用なのかわかりませんが、書かれていません。
この場合の「安全」と辞書の話はともかく、日本人は安全という言葉をよく使います。青信号で横断歩道を渡っていてはねられたり、公園、学校などで事件が起こる度に、何かにつけて「安全なはずの」と言われます。現実の事象として明らかに安全ではない事や、だれも安全だと保証していないことまで安全だと思うなんて、全くひどい勘違いです。そんな日本人の精神性をよく表している言葉に、安全神話なんていうのもあります。
今日でこそ、通学路を「安全なはず」と思う人は少なくなったでしょうが、これもついこの間まで「安全なはず」だったのです。大切な子供たちのために、事件の後だけでなくて、常に大人が付き添うことがあたりまえになるように、子を持つ親はもちろん、全ての人が、今までの認識が大きな間違いである事に気付くべきです。
日本には、さまざまなことについての安全に対する意識、その対極にある危険についての意識が低すぎる人が多いように思います。1人ひとりの意識の低さは、社会の危機につながっています。日本は、危機意識をもって対応すべきことに十分対処できているのでしょうか。
先進国で唯一、HIVウイルス感染者を増やしていることや、交通事故を異常に増やしていることなどから、対処できていないことは明らかです。
こうなっている原因として考えられるのが、「安全」という言葉の影響です。この言葉が曖昧な概念のまま万能用語として使われていることは、人々の意識を低いままにとどめさせ、何もかも安全だと幻想を抱くようになってしまっているのだと思うのです。
次のページでは、交通安全という言葉をテーマに安全についてもうすこし考えます。
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