「譲れ」が無いことは道路がまっとうでないことの象徴
Page 3道交法には「進行妨害をしてはならない」と書いてありますが その2
「進行妨害をしてはならない」とはどういうことか
前のページでは、標識や言葉が無いことによる問題を取り上げましたが、本質的には、言葉にどんな問題があっても、運転者の行動に問題がなければ良いのです。しかし現実はひどいものです。「当たり前にできて当然なことが何故当たり前にできないんだ!」という、怒りや情けなさが入り交じった感情が込み上げることは日常茶飯事です。
こんな事態になってしまっているのは、運転者の教育が徹底されていないからです。日本では、「進行妨害をしてはならない」の意味が、ほとんど個人の勝手な解釈にゆだねられています。
具体的には、優先側に急減速させなければ良い、優先側を止めなければ良い、終いには事故にならなければよい。となってしまっているのです。これらをまとめれば、優先側にブレーキをかけさせても構わないという感じです。
あなたは、「進行妨害をしてはならない」とは、具体的にどういうことだと認識していますか。 ここで、道路交通がまっとうな国での「譲れ」とはどういうものなのか、藤田兄弟の欧州視察旅行での体験などから紹介します。海外在住経験がある方などで、もし何かあればメールを下さい。
- 譲れの大原則
- 優先側の進行にいかなる影響も与えてはなりません。具体的には、優先側の運転者にアクセルペダルの踏み込みを緩めさせてはいけません。ましてや、ブレーキをかけさせることは絶対にあってはなりません。
- とても混雑している街路では
- 優先側の運転者にアクセルペダルの踏み込みを緩めさせたり、用心深い運転者が足をアクセルペダルからブレーキペダルに乗せ換えることがあっても踏むことはない。というくらいの少しの速度調節をさせることは特に問題は無いでしょう。
譲れという規則は、近代的な道路交通には欠くことのできないものです。ところが日本ではその重要さが認識されていません。標識や規則が無いことはその証拠として十分です。
そんな日本で「…の進行妨害をしてはならない」の意味が真剣に考えられたことはあるのでしょうか。私どもの知る限り、非優先側の意識と行動の模範となる具体的な基準は示されていません。
まっとうな運転者教育ができるわけがない
一般道でも80〜100km/hで走行する諸外国では、優先道路側の交通と事故を起こせば大事に至るという危機感があり、それが規則を厳格に守る要因となっている面もありそうですが、日本と変わらない街路でも同じように行動しているところを見ると、そうさせているのは運転者教育だと言えます。
少し言葉の問題に戻ります。前のページで、譲れを意味する簡潔な言葉は、交通参加者の全員が、同じ言葉か、ほとんどぶれのない言葉で記憶しておかなければならない、と書いた理由ですが、1つの簡潔な言葉になっていないと、教育もやりにくいのです。
「…進行妨害をしてはならない」という意味の言葉は、教本や問題集には書かれていますが、教官は「きまりことば」としていちいち言っているでしょうか。このように教育で使える言葉すら無いのですから、まっとうな教育ができないのも当然です。逆説的に言うと、明確で簡潔な言葉が使われていないことは、譲れを十分に教育しようという気が無いことの表れでもあるのです。
言葉の問題は終わります。先ほど諸外国での常識を紹介しましたが、それに対して日本では、そもそも「進行妨害をしてはならない」とは具体的にどういうことなのか、非優先側の意識と行動の模範となる具体的な基準は示されていないのですから、それを教育できるわけがありません。そして結局、共通認識を持たせることができないので行動にもばらつきができてしまい、危険な状況をつくりだしているのです。
例え、路上教習の現場で、教官が優先道路に進入するタイミングを指導したとしても、おそらくそれとて明確な基準によるものではないので、一般交通の環境に入れば麻痺してしまうでしょう。大きな意味で教育の場である現実の交通環境も、もともとダメ教育で免許を持った運転者ばかりですから悪い見本にしかならないのです。
つづく